日本の風俗の歴史を溯ってみる

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遊女達の生活は過酷で辛いものです。これを日本の風俗の歴史を交えながらお話ししていきましょう。

昔は吉原に対する世間の認識として、当時男達が吉原に通うことは恥ずかしいことではなく、独身男性だけでなく妻のある男性も通うのが普通でした。

今とは全然違いますね。

多額の借金さえしなければ世間の目は寛容で、素人の女性に手を出すくらいなら遊女と遊ぶほうが男らしいとさえ言われたそうです。

今回はそんな日本の風俗の歴史を遡ってみたいと思います。

特に遊郭なんて、もしもタイムスリップできるとしたら行ってみたいとは思いませんか?

例えば、よく聞く年季についてはご存じでしょうか。

遊女の年季の10年というのは客を取り始めて金を稼げるようになってから10年なので売られてきてから水揚げするまでの生活費や教育費用などはすべて借金となります。

ですので遊女は基本的に借金まみれなのです。

遊女の教育費はすごくお金がかかるからそうなるのですが、売られてきた挙句、借金を背負って遊女として働かされるなんて、かなり過酷な人生ですよね。。。

日本の風俗産業は、多様な歴史を持つ興味深い分野です。

その歴史を辿ると時代とともに様々な変遷を遂げ、社会や法律の変化にも影響されてきました。

かつては遊郭や赤線、青線などの風俗街が栄えスカウトマンが客を誘導する時代もありました。

しかし風営法の改正や浄化作戦などにより、風俗の営業形態や景色は大きく変わりました。

そんな日本の風俗の歴史を振り返り、その変遷や背景に迫ってみましょう。

遊郭・赤線・青線

「遊郭」は聞いたことがあるかもしれませんが「赤線」「青線」という言葉は聞いたことが無い人も多いかもしれませんね。

赤線地帯、青線地帯とも言います。

このあたりの風俗における「場所」について解説していきます。

遊郭とは

遊郭とは、遊女(遊廓に住む女性達)が集まり客に性的なサービスを提供する場所を指します。

日本の遊郭は江戸時代から昭和初期にかけて特に栄え、歓楽街として知られました。

漫画やアニメにもよく登場しますよね。

遊女たちは芸舞妓(げいぶがい)や芸者(げいしゃ)としても知られ、舞踏や歌舞伎、茶道などの芸を披露することもあります。

江戸時代初期に整備された幕府公認の遊郭「吉原(よしわら)」 の遊女は18歳から28歳の誕生日を迎えるまでの10年間、遊女として仕事をするのが一般的でした。

これが冒頭でもお話しした年季というものです。

遊廓には遊女たちのための施設や娯楽施設も整備されていたこともあり、一種の閉ざされた社会が形成されていたと言えます。

遊廓は風営法の施行や都市計画の変化などにより、次第に衰退していきました。現在では、日本国内での遊郭の営業は禁止されており、その歴史的な面影は一部の地域で見ることができるだけです。

赤線・青線とは

赤線と青線は、かつて日本の都市部に存在した風俗街の一種です。

呼び方の由来は「警察が地図上の盛り場を赤線で囲んだからというものや、特飲街指定地域を〈赤線地帯〉といい、これに対し裏口買売春を行う私娼街を〈青線地帯〉と呼んだなど諸説あります。

  1. 赤線(あかせん)
    • 赤線は、特に江戸時代から昭和初期にかけて栄えた遊廓や遊女街を指します。
    • 赤い提灯が目印であり、通りには多くの遊女たちが立ち並び客を誘い込んでいました。
    • 主に娯楽街や歓楽街に位置し、客に性的なサービスを提供することがその主な目的でした。
  2. 青線(あおせん)
    • 青線は、赤線と同様に風俗街を指しますが、遊女たちの衣装や提灯の色が青色であることが特徴です。
    • 赤線と同様に、客に性的なサービスを提供することが主な業務でしたが、一般的には赤線よりも比較的新しい街でした。

遊女の仕事

昔の遊女になる女性の多くは、貧しい家庭の出身でした。

例えば、借金に苦しむ親や没落した商家の親などが娘を売る感じです。

人身売買は禁止だったので表向きは奉公として自分の娘を売っていました。

そして彼女たちは遊女としての修行を始めます。

農村出身者は3〜5両(約40〜65万円)、下級武士の親は18両(約234万円)で娘を売ったという記録が残っています。

売るというか、給料の前借という感じなのでこの給料の前借も売られた娘が働きながら返すことになります。

しかも膨大な利子が付くんです・・・ほんと、あんまりですよね。

売られた子供たちは、妓楼で雑用をしながら芸事を学び、修行を積みました。

彼女たちは16〜17歳頃には花魁(おいらん)になるための修行を始め、その後に水揚げと呼ばれる初体験を経験します。

水揚げの相手は多くが中年の金持ち男性であり、これによって彼女たちは遊女としての地位を確立しました。

実は尊敬されていた遊女


「廓勤め」と呼ばれる女性の遊郭での勤務は、一般の庶民にとっては非常に過酷であることが知られていました。

彼女たちは家族を支えるために自らを犠牲にし、親孝行者として尊敬されていたんです。

そのため、遊女に対する社会的な差別はほとんどありませんでした。

元遊女だからといって妻に迎えることを嫌がるような男性も少なかったと言われます。

これは当時のヨーロッパの娼婦とは違ったようです。

ヨーロッパの娼婦は一般の家庭に入ることが許されず、差別されていました。

吉原の出身である元遊女が一般の家庭に入ることは珍しくなく、彼女たちはむしろ羨望の的であり、吉原出身の綺麗な奥さんとして称賛されることもあったくらいです。

遊女は病気になっても売れっ子の遊女でなければ医者すら呼んでもらえず、療養させてもらえません。

療養できてもその費用はもちろん本人持ちです。

遊女はただでさえ借金を背負っているのにまた借金を重ね、年季は遠のいていくばかり。

ですので、そんな過酷な生活をしていた遊女を世間は差別することなく、年季が明けた彼女達を暖かく迎え入れたという背景があるのです。

スカウトは昔も存在した

昔は今で言うスカウトと同じような存在の女性を遊女屋に斡旋する女衒(ぜげん)が存在しました。

彼らは親族からの申し入れだけでなく、各地を回り貧しい農民の娘を探し甘い言葉で女性をで口説いて遊女屋に連れて行ったのです。

女衒は「玉出し屋」「口入屋」「周旋屋」とも呼ばれましたが、一般的には「人買い」として知られていました。

吉原遊郭の創設者として知られる庄司甚内は遊郭を作り女衒を取り締まると言っていたのですが、明治時代に入っても女衒の存在は消えませんでした。

その女衒がスカウトの元になった存在なのでしょう。

遊郭を出る方法

遊郭を出る方法は主に2つです。

年季が明けて出られるのと、もう1つは身請けです。

吉原の遊女には、通常「年季十年、二十七歳まで」という年季(契約)がありました。

しかし、生活費や特別な出費(休みを取ったり病気の治療)で借金を重ねることも多かったので年季が終わっても吉原に残り、切見世などで働く遊女もいたりとなかなか遊郭の外には出られません。

また、年季十年は働き始めてからの期間であり、子供の頃から禿(かむろ)として吉原にいた場合、10年以上の長い間を過ごすことになります。

そして唯一、年季が明ける前に遊郭を離れる方法が身請けです。

身請け

身請けとは客が遊女の年季証文を買い取り、その遊女の身柄を引き取ることを指します。

この取引には莫大な金額がかかり、遊女の社会的地位が高いほど身請けの金額も高額になりました。

記録によると、1700年に身請けされた三浦屋の薄雲という遊女は350両(約3500万円相当)、1775年に高利貸しの男に身請けされた松葉屋の瀬川という遊女はなんと1400両(約1億4千万円相当)だったそうです。

そこまで払って身請けするなんて一体どんな女性だったのか見てみたいですよね。

まとめ

いかがでしたか。日本の風俗産業は時代の変化とともに進化し、法律や社会の要求に適応してきました。規制の強化により店舗型の風俗店が減少し、代わりに出張型や待ち合わせ型のサービスが主流となったりと、風俗業界は合法的な形態での営業を維持しながら、顧客のニーズに柔軟に対応できるようにどんどん進化していかなくてはいけません。これからの風俗業界はどのように変化していくのでしょうか。時代を見据えた経営戦略を立て、自店の運営をしっかりと支えていきたいのもですね。